ネズミの心臓

白い兎はみだらで自堕落

女の子として生まれてみたい女の子とおはなしするために

先日、高校時代からの友人とデートをした。

パスタランチを食べ、1つのパフェを二人でつつき、店々を冷やかし、色違いの安いブレスレットとレターセットを買って、お手紙交換しようねと言って別れた。

デートの定義とは、男女が日時を定めて会うことだが、女の子と買い物をしたり映画を見たりして遊ぶ事を、私はデートと呼んでいる。

だって、女の子とのデートは男の子とのそれと比べて、圧倒的に「ときめく」のだ。

デートをデートたらしめる要因は、ときめきや幸せではないかと私は思う。一緒にいても胸の高鳴りを覚えない人と行動を共にしたって、それはただ、「二人で〇〇した」以外の何物でもないのだ。ラブホテルで恋人とセックスするのはデート(の一環)だが、好きでもない相手と会ってセックスするのをデートとは呼びたくない。この価値観は、私自身の多分にロマンチストな傾向に起因している。

私にとって、女の子として振る舞えるのは幸せなことだ。だから女性や女として同性の人間に対峙するのではなく、女の子としてそうする事に無上の幸せを覚える。捉えようによっては幼いのかもしれない。だが私には、「女の子」としての自分と、私以外の「女の子」と関わる機会は、現実からの逃げ道としてどうしても必要だ。

二人でパンケーキを食べ、恋について話す時、女の子同士の閉ざされた花園が出現する。流れる甘い蜜のような時間は、辛いこと全てを忘れさせ、私を幸せにしてくれる。女の子はいつだって無邪気で他愛なく残酷だ。男を知ろうとその陰で平気で舌を出してみせる。花園があり続ける限り、私はそこに逃げ込むことができる。男性性の支配に背を向けるための花園。二人だけで秘密の話をしてにっこり笑えば、明日からもきっと生きていけるのだ。

「友情とはセックスのない恋愛である」という言葉がある。同性同士の関係において、微妙な均衡の上で成り立つ危うさを孕んだプラトニックな性質こそが、私にとってときめきの源泉だ。これは私が両性愛者であるが故かもしれない。さらに私は、惚れっぽく恋愛面において未熟なので、友情と恋とをしばしば混同してしまうし、両者は容易く連続する。何も起こらないだろうという確信に近い予感と、何かが起こるかもしれないという淡い期待。何も起こらなくていいのだ。それが私たちの間の平穏を担保するものだから。私はあなたが好きです。私とあなたは仲良しです。でも私たちは多分決してキスもセックスもしないでしょう。