ネズミの心臓

書肆バベル跡地

遺影はプリクラで

死んだら遺影はプリクラにしてほしいとことあるごとに言ってきた私だったが、先日とても素敵に私が写っている写真をもらったので、そちらを遺影にしてほしいと思う。

 

友人が撮影した写真なのだが、滑らかな曲線を描いてくびれた腰と、前方のどこか一点を見つめる表情が、まるで自分ではないかのように美しい。私は美人ではないしスタイルもよくない。だが、写真に写っている私には被写体としての美しさがあると思う。多分この美しさを引き出せるのは友人しかいない。いつも写真を撮ってくれてありがとう。一緒に最高の作品を作ろうね。

 

写真は額装した状態でもらったので、そのまま何の気なしにテーブルの上に置いてみたら、本当に遺影のように思えてきた。傍に積まれた本や薬は遺品だ。死んだ自分の写真を見つめながら食事をとるのは不思議な感じがする。サンドイッチを頬張りヨーグルトを口に運ぶ私はこんなにも生きているのに、目の前にいる私は死んでしまっていて、もうどこにもいないのだ。今私が行っている「食べる」という行為、生きるために行うとされる行為は一体何なのだろう。「食べている」私も次の瞬間には死んでしまうというのに。私たちは死ぬことを繰り返しているけど、前に向かって進む生のスピードが速すぎるから、死に気付けないのだ。カメラは、一瞬だけ時間を止めて、自分が死んだことを知るための道具といえる。写真を撮られると魂が吸われると昔は言われていたそうだが、それはあながち間違いではないのかもしれない。死は写真によってもたらされる。死んでしまった私の魂たちは、レンズの奥で静かに眠っている。


私が死んだら、この部屋にあるものは全て遺品になる。部屋丸ごと遺品なのだから、遺室と言ってもいいかもしれない。この部屋で生きているのは私しかいない。私は死に囲まれて生きている。本、香水、洋服、化粧品、薬、みんなみんな冷たいからだをしている。体温をもつ者の汚れた指先が幾多もの死に手垢をつけていく。かわいそうな死。無遠慮な生に穢されて、その高潔さを失ってしまうのだ。

 

死を繰り返す私。死と一つ屋根の下に暮らしている私。死を冒涜する私。

 

連続的な死の集積によってできた私の生。

 

死んでも死んでも死にきれないから、今日みたいな雨の日にベランダからふっと飛び降りて死にたい。

 

ギムレットには早すぎる

深夜二時、私は木屋町の焼肉屋に居た。ビールがあまり得意ではないので、梅酒を飲みながら肉をつつく。テーブルの上には塩タン、上ロース、上カルビ、上ハラミ。箸休めのキムチとセンマイも置いてある。私がキムチを食べ、相方がセンマイを食べる。目の前で、牛の胃袋の切れ端が、人間の胃袋へと吸い込まれていく。そう考えるとシュールな光景だ。思わずこぼれた笑いを、梅酒を飲み込んでごまかす。

肉を焼くのは相方の役割だ。私は鳥の雛のように、目の前に食べ物が運ばれてくるのをぼんやりと待っていればよい。しっとりと質量を持った肉が、透明の汁を滴らせながら私の前にやってくる。皿に置かれた肉を暫く箸で弄んでから、口の中にぐいっと押し込む。自分のものではない熱が体内に入ってくる感覚。口内は肉汁で満たされ、粘膜が柔らかく擦られていく。そろそろと歯を熱い塊に食い込ませると、それはほろりと崩れ、肉汁はますます溢れ出す。体液をだらだらとこぼしながら形を無くしていく生き物は、口を、食道を通って身体中を支配する。私はアフリカの熱病に罹った患者だ。脳がぐずぐずに溶けていく。死ぬのが怖い。まだ死にたくない。お酒を飲めば大丈夫だよ。ほら、ここに梅酒の入ったグラスが。一人で死ぬのは怖いから、今度二人で一緒に死のうね。

寄生生物による発熱性の病が完全に治りきらないまま、私はふらふらと立ち上がり、相方の助けを借りながら店の外へと脱出する。夜中の涼しい風に乗って、生臭い匂いが漂ってくる。その匂いを発しているのは、営業時間を終えた飲食店の前に置かれたごみ袋だった。前を通りかかるとき、思い切り息を吸い込んでみる。肉や内臓の腐乱した匂い。それは死の匂いだ。そういえばさっき私の中に入ってきた生き物も死んでいたはずだった。彼はいつ死んだのか?私の体内でもう一度死ぬのか?だとしたら私の身体はまるで墓場ではないか。死ぬのが怖い。でも知らない誰かの死を抱え込んで生きるのも怖い。お酒を飲めば大丈夫だよ。ほら、もうすぐバーに着くから。お酒の瓶が青い光で照らされる、綺麗なバーだよ。

バーは雑居ビルの三階にある。その狭いエレベーターは、私に棺桶を連想させた。私死んじゃったのかな。店に入ると顔見知りのマスターが迎えてくれる。席について甘いカクテルを、と頼み、相方と小さく乾杯する。甘いお酒は薬だから、これを飲めばどんな病気も治ってしまう。生き物はすっかり小さくなって、身体の隅っこで大人しく丸まっている。まだ生きているだろうか。早く死んで、消えてくれればいい。そう思いながら、カクテルを何杯も飲んだ。怖いけれど、私は一人で生きて一人で死ぬのだ。薬の作用で私の身体がほんのりと火照りはじめて、彼は死んだ。でも、彼の骨の欠片や内臓の一部は、まだ私の中を漂っている。彼と一緒には死にたくない。死ぬのが怖い。怯えた目で周囲をきょろきょろ見回す私に気付いたマスターが、ギムレットを出してくれる。お酒を飲めば大丈夫だよ。ほら、これを飲んだら一緒に飛ぼうね。

 

結局私は直前になって足がすくんでしまい、どうしようもないのでタランチュラをショットで煽ってから飛び降りたのだった。何かを咀嚼するくちゃくちゃという音が、少し明るくなった空の彼方から聞こえた。

 

深夜三時に宇宙と交信

今、夜中の三時、お酒を飲んで唐揚げを食べながらこれを書いています。お酒を飲むと筆が進む気がする。何でだろう。私だけなのかな。

男の人が怖い時期もあったけど、今こういう生活を送っていることを考えると、思えば遠くに来たものだという感じです。でもやっぱり、下半身でしかものを考えられない男性(全ての男性がそうというわけではないよ)のことは見下してしまいます。態度には出さないけど。

だから、そういう男の人に会うときは、普段ならしないような女の子らしい恰好をして、かわいいピンクの口紅を塗り、安物の下着をつけていきます。そして香水の代わりにヘアコロンを。私は安い女だから、こうして安い女になるのです。ヴィヴィアンウエストウッドが好きで、暗い色の口紅ばかり塗り、ルタンスやゲランの香水をつける私はどこにも居ません。高い下着なんて絶対に身につけない。男の人は繊細なレースも、刺繍も、私の矜持や心意気も、何もかも無視してそれを剥ぎ取ってしまうから。御しやすそうな女の子を演じることは、私にできる、男の人に対する最大の侮辱です。本当の私はそこには居ないのに馬鹿みたいだねと言って嘲笑うのが楽しみなの。こう書くと、男の人が嫌いみたいだね。そんなことないよ。

私は男の人も女の人も好きです。女の人を好きなのは一過性の病みたいなものだと思ってたけど、そんなことなかった。若しくは病の症状がまだ続いているのかもしれない。同性に恋するというのは、全然ロマンチックで素敵なことなんかじゃない。泥の中で足を引っ張られながらもがくような、苦しいものです。漫画や小説の中ではその苦しみさえも甘美なものとして描かれてしまうけれど、泥に塗れた私の姿は醜かった。同性への恋は、異性への恋と同じように滑稽で馬鹿馬鹿しいものだと思います。性別に関係なく好きになった人が好きなのだと思うことで私は大分救われました。でも時々、「女の人を好きな私」「男の人を好きな私」のことを考えて胸が苦しくなるの。私は誰を好きになって、どう生きればいいんだろう。

お酒も飲み終わったしそろそろ寝るね。おやすみなさい。

儚いだけのきらめきだから

九州の実家から京都に戻って来た。地元と比べても、京都は暑い。湿度が高く、水分を含んだ空気が、肌に、毛穴にぺったりと張りつく感じがする。

京都に着いた私は、新幹線から降りたその足で、ATMからお金を引き出した。一万円札の束を掴み、伊勢丹へと向かう。化粧品売り場へ行き、アナスイでBBクリームを、MACで口紅を買った。口紅は、インスティゲイターと名付けられたダークプラム色のもの。扇動者の名にふさわしい、挑発的かつ魅惑的な色だ。MACはちょっとびっくりするようなダークカラーの口紅があるから好き。

そのまま四条の藤井大丸に行って、セール中のヴィヴィアンウエストウッドを覗いた。一番欲しかった型のブラウスは無かったが、胸元にフリルがついたストライプの綿のブラウスを試着して買った。私はずぼらなくせにアイロンが必要な洋服ばかり買ってしまう。伸縮性の無い生地でできた服を着るときの、よそ行きの身体が作られていく感覚が好きだ。服は私に「着られている」のだけれど、服は私の体形に合わせてはくれない。それでいて、綺麗に裁断され縫製された服は、僅かな隙間を残して私の身体に沿い、本物の肉体のそれとはまた別の美しさをもったシルエットを生み出してくれる。

家に帰った私は、荷解きもそこそこにベッドの上に置かれたノートパソコンの前に寝転がった。古書店の通販サイトで、山崎俊夫全集の補巻を購入。ここで問題なのは、私が全三巻の全集そのものを、持っているにも関わらずまだ読んでいないということだ。こうして未読の本がたまっていく。積読を消化してから新しい本を買えばいいと分かってはいるのだが、古本や出版されてから月日が経っている本は、出会った時を逃すと、二度と手に入らなくなるかもしれない。そう考えるといてもたってもいられなくなり、つい手が伸びてしまうのだ。大学生活もあと少し。その間にできるだけたくさんの本を読もうと思う。

さて、買い物を終え、夢から醒めた私の目の前に残されたのは、開かれぬまま床に転がったスーツケースと、取り敢えず袋から出してみただけの購入品たちだった。どうして夢の残滓は貧相にくすんで見えるのだろう。勿論それだって、十分魅力的なものには違いないのだが、あの世界の全てが色彩豊かにきらめいて見えるような時間と、そこに登場する愛しい小物たちに比べると、色褪せて取るに足らないもののように見える。私は物に対してお金を払うことで、きらめきの中に身を置く幸福感を買っているのだ。夢の残滓は私に使われて、色のない日常に埋没してゆく。かつて夢だったもの。私の部屋は夢の化石でいっぱいで、もう溢れ返りそうだ。

女の子として生まれてみたい女の子とおはなしするために

先日、高校時代からの友人とデートをした。

パスタランチを食べ、1つのパフェを二人でつつき、店々を冷やかし、色違いの安いブレスレットとレターセットを買って、お手紙交換しようねと言って別れた。

デートの定義とは、男女が日時を定めて会うことだが、女の子と買い物をしたり映画を見たりして遊ぶ事を、私はデートと呼んでいる。

だって、女の子とのデートは男の子とのそれと比べて、圧倒的に「ときめく」のだ。

デートをデートたらしめる要因は、ときめきや幸せではないかと私は思う。一緒にいても胸の高鳴りを覚えない人と行動を共にしたって、それはただ、「二人で〇〇した」以外の何物でもないのだ。ラブホテルで恋人とセックスするのはデート(の一環)だが、好きでもない相手と会ってセックスするのをデートとは呼びたくない。この価値観は、私自身の多分にロマンチストな傾向に起因している。

私にとって、女の子として振る舞えるのは幸せなことだ。だから女性や女として同性の人間に対峙するのではなく、女の子としてそうする事に無上の幸せを覚える。捉えようによっては幼いのかもしれない。だが私には、「女の子」としての自分と、私以外の「女の子」と関わる機会は、現実からの逃げ道としてどうしても必要だ。

二人でパンケーキを食べ、恋について話す時、女の子同士の閉ざされた花園が出現する。流れる甘い蜜のような時間は、辛いこと全てを忘れさせ、私を幸せにしてくれる。女の子はいつだって無邪気で他愛なく残酷だ。男を知ろうとその陰で平気で舌を出してみせる。花園があり続ける限り、私はそこに逃げ込むことができる。男性性の支配に背を向けるための花園。二人だけで秘密の話をしてにっこり笑えば、明日からもきっと生きていけるのだ。

「友情とはセックスのない恋愛である」という言葉がある。同性同士の関係において、微妙な均衡の上で成り立つ危うさを孕んだプラトニックな性質こそが、私にとってときめきの源泉だ。これは私が両性愛者であるが故かもしれない。さらに私は、惚れっぽく恋愛面において未熟なので、友情と恋とをしばしば混同してしまうし、両者は容易く連続する。何も起こらないだろうという確信に近い予感と、何かが起こるかもしれないという淡い期待。何も起こらなくていいのだ。それが私たちの間の平穏を担保するものだから。私はあなたが好きです。私とあなたは仲良しです。でも私たちは多分決してキスもセックスもしないでしょう。

自己紹介に代えて

自己紹介か書評を、とお題を頂いたが、どちらもどうにも上手く書けそうにないので、少し昔の話をしようと思う。


「ネズミの心臓」というのは、私が高校生時代に運営していたメンヘラサイトの名前である。

当時はまだメンヘラサイトが隆盛だった。私と同い年、或いは少し年下、年上の女の子たちが、ブログに死にたいと綴り、リスカ画像をアップロードしていた。

そんな中、私がサイトに載せていたのは自作の短歌である。何故短歌だったのか。

多くの女の子たちが、具体的なエピソードとそれに付随する感情(学校でいじめられていて苦しいとか、好きな人と喧嘩して悲しいとか)をブログに書いていたのに対し、私は語るべきエピソードを持たなかったのだ。私の中には、理由を説明することができない苦痛だけがあった。

そんな訳で、延々「苦しい」「死にたい」とだけ呟き続けるのも芸が無いなあと思った私は、思い浮かんだ言葉を繋げて短歌を作り始めた。

どんなものだったか、もう具体的には思い出せないが、剥製、映写機、エーテル等々、厨ニ病臭い単語が並んでいた気がする。

今考えれば、作品の巧拙はともかくとして、苦しみを自己表現という形に上手く昇華していたと言えるかもしれない。

短歌を詠むのは、サイトを閉鎖した時に辞めてしまった。

私はきっともう二度と、短歌を作ることはしないし、できないだろう。